祭神 : 孝霊天皇・伊邪那岐神・伊邪那美神・金山彦神
創建は平安時代、平城天皇の御代の大同二年(八〇七)であるが、現在の本殿は慶安年間(一六四八―五二)に福山城主水野氏が建立したという伝えと、寛文九午(一六六九)に建立されたという二説があって、どちらも明確な根拠はないが、様式上、十七世紀中頃のものと考えられ、この二つの伝えは充分に信じられる。
大規模な五間社は広島県下でも例が少なく、特に注目すべきは人母屋造の千鳥破風と唐破風を設けた四面庇の平面形式となっている。外部は素木であるが、内陣の神殿部分は漆で塗られた質の高い建物である。
● 文 化 財
○本 殿 昭和五十八年十二月指定 府中市有形文化財
〇木造神像,木造随身立像 15躯(神像11躯,随身立像4躯)
国指定 重要文化財 平成29年9月15日
本殿およぴその脇座、随神門に祀る大小十数体の御神像の中には、平安時代に遡る木像も存在し
ていて由緒の古さを物語っている。(現在は別場所に保管中で非公開)
〇 鐘 楼 府中市指定重要有形文化財・建造物 平成19年12月25日
鐘楼は神仏習合時代の名残で当社が大社であったことを示している。 方一間切妻造り、箕甲本瓦葺、四方吹き放ちの形式の鐘楼は、全国的にもかなり古い遺構であり、四本の角柱を内転びに建ててあり、虹染形頭貫と台輪を設け、下部に2本の貫を入れて、軸部を固めている。
初代の梵鐘は、福島正則が広島に持ち帰ろうとして尾道沖で地位没。二代目は安政二年(一八五五年)ペルリー来朝の際、外国船に対する海防の目的で、幕府の命により梵鐘を大砲に改鋳する事になり徴発されました。爾来、百五十年程、梵鐘の無い鐘楼となっていましたが、神社に鐘楼があるのは、全国で二百余社、うち広島県は当社を含み二社で珍しいとされている。三代目の梵鐘として、京都の岩澤鋳造㈱にて鋳造し、平成十六年七月に釣り下げることが出来たのである。
〇 随 神 門 府中市指定重要有形文化財・建造物 平成19年12月25日
貞享四年(一六八七年)建立
昔は参道入口の鳥居の内側にも随神門が建っていたと言われ、二ヶ所にあったことからも、往古は宮内の吉備津神社に次いで、備後の中でも大社に属する神社であったことが伺える。
● 主なる祭儀
○例 祭
明治二十六年頃までは陰暦九月二十八、九日であったが、その後太陽暦の十月十四、五日とな
り、近年は十月第一土、日曜。前夜祭に手草か神楽奉納。大祭当日は子供みこし四基の巡幸あ
り。
○蝗除祭(虫送り)
七月第一日曜日
栗柄町、用土町より鐘、太鼓それぞ十一基を囃し立てて南宮神社へ参詣。
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